「自分が本当に望む目標を定める」
これは充実した人生を送るうえで重要だが、そもそもとても難しい。
どうしても我欲が入る。雑念が入る。人は自分が本当に望んでいることが分からない。自分がやりたいことの理由を過去の痛みから見つけていたりする。
「人々を幸せにしたい」という望みには、
「そういうことを言うとみんなにかっこいいと思ってもらえる」
「人を幸せにできる自分じゃないと生きている価値がない」
「自分より不幸な人を周りに集めてそれを見て(私は大丈夫)と安心したい」
という思いが隠れていることが多い。本当に望んでいるのは人を幸せにすることではなく、自分自身を幸せにすることだったりする。
好きな漫画の『バガボンド』に「我執」という言葉が出てくる。主人公である宮本武蔵は剣の師匠やお坊さんにそれをたしなめられる。
「武蔵、お前はまだ『自分が自分が』なのか」
武蔵のなかで純粋な願いは「剣術を極めたい」ということだったのに、いつしか「俺が最強だと天下に示したい」という目標に変わっていく。「俺の方が強い」ということを証明するために、相手と試合をするようになっていく。
元々はただ山のなかでひとり剣を振り回していること。自分と剣が、山の自然が、一体になっていく感覚が好きだっただけなのに。
「剣術を極めたい」という目標と「自分の強さを人々に認めさせたい」という目標は近いようで異なる。この微妙な違いがやがて大きな違いを生んでいくし、こういう微妙なものがある時点で「剣を極めたい」という目標は純粋ではない。純粋でない目標であれば達成することはできない。
自分の目標が純粋ではないことに気がつくのは難しい。気づいて目標を更新した経験がある人間をあまり知らない。
純粋ではないことに気がつくには、いったん不完全な目標を掲げて進んでいくしかないのでは?と実体験から思う。
不完全な目標でも、それに向かって行動すると目標が実現していく。
望んでいたことが叶っていくので嬉しいはずなのだが、むしろモヤモヤが増えたりする。なぜなら本当に望んでいることではないから。
あとそもそも、やる気が出ずに全く行動できなかったりする。意志が弱いのではなくて、目標の質の問題。
こうなってくると「何かがおかしいぞ」と自分を疑うことが、目標を定めた直後よりはやりやすくなる。
「なぜ自分はこれを目標にしたのか?どういうきっかけからやりたいと言いはじめたのか?」
そういう問いを自分に投げかけて深く考えていけば、自分が掲げた目標よりもさらに深いところで望んでいたこと、実は大きな心の傷があったことに気がつく。
とまあ、ここまで書いたが、
1、不完全でもいいので目標を掲げる
これすら多くの人はできないし、
2、目標のために行動する
これもまたできない。
3、自分のモヤモヤに気づいて言語化する
ここまで自力でやれる人間となるとほぼ存在しないのでは?
4、自分の奥底に気づいて目標を更新
こうしてまた行動していく。どうせ一度のアップデートではすべての我欲、不純物は取り除けないのでまた最初から繰り返す。
という作業を俺は何年もかけてやってきた。本当に大変だったが、自分の人生を生きるにはこれをするしかなさそうだった。
「自分が本当に望む人生を生きたい」
そもそもそういう強い動機が俺にはあったということです。これが普通の人にはない。
だから行動力も鍛えたし、自分が感じていることを言葉にする修練も積んだ。
一度の失敗で人は死なないし、そこから再起することは周りの人に好意的に受け止められることも知った。
モヤモヤが止まらない精神的には地獄な状態でも、そこから逃げずに自分の気持ちと向き合う。
向き合うのが上手くいくと新しい自分を発見できる。古い自分を捨て新しい自分を宣言することが、とても清々しい体験であることも知っている。知っているから続けられる。
俺が、なにか目標を掲げて行動しようとしている人間によく、
「それをあと10年続けてやれ」
「あと5回死んで来い」
と思うのは、自分の奥底にある気持ちを見つけて、傷を治して、目標を何度も更新して、純粋で強固な本当の自分の願いにまで研ぎ澄ませてこい。という意味なのだろう。