これはフィクションです

32歳。男性。自営業。独身。

暮らし。2月1日から15日

・今月は野暮用があって忙しい。気がついたら16日になっていた。なので特にエピソードなし。

やはり1日にみっちり予定を入れていると時間が過ぎるのが早い。普段どれだけのんびりやっているのか?しかしおれはあの時間を持て余すぐらいのんびりがよい。忙しいと、なんというか、過ぎる月日に自分が追いつけていない感じがして、あれは好きではない。時間が流れていくのを味わって日々を過ごしたい。

 

 

・ふと思い出した記憶。小学4年。夏休み前の終業式。下校前のホームルームでのこと。

 

先生から夏休み期間の宿題についてアナウンスされているとき、1人の女が「私もうドリル終わりました!」と自慢げに言った。

 

宿題の算数と漢字のドリルは数日前に配られていたのだ。女はそれをすでに終わらせたらしい。

 

実はおれも同じようにドリルを終わらせていた。宿題を減らした状態で夏休みに突入し、7月は優雅に過ごそうという腹づもりだった。しかしおれは「僕も終わりました!」と言うことはなく黙っていた。

 

女の発言を聞いた先生は「じゃあ◯◯ちゃんには新しいドリルをあげましょう」と言い放ち、女は追加の宿題を出されていた。

 

バカめ。と当時のおれは思った。わざわざ自慢するからそうなる。黙っているが吉。



 

 

非常におれらしい、よい記憶である。示唆しているものが深い。

 

あの愚かな女とおれの違いは、なんのために夏休み前にドリルを終わらせていたのか?だろう。



おそらく女は褒められるために終わらせ、おれは自分が夏休みを優雅に過ごすために終わらせた。女は他者からの承認を求め、おれは自分の幸福を求めた。

 

幸福になるために他者の承認を必要としてしまう人間は、可哀想だと思っている。なぜなら他者は自分でコントロールできず、相手に依存するしかないからだ。自分で自分を承認し、心を満たせるのがもっともよい。精神的に健康だ。他人に褒められたいと思っている人間は、おれは好きではない。



おれは自分の他者に認められたいという気持ちを、大人になってから自分で押し潰したと思っていたが、子どものころからあまり強くなかったのだろう。大人にかまってもらいたいと思った記憶が、かまってもらえなくて寂しいと思った記憶がほぼない。



子どものおれにとって大人はわずらわしい存在で、いかに監視を目を逃れるかが命題だった。おれがする遊びは、なぜか常に大人の不興を買ったので。だから楽しく遊ぶには大人の目を盗む必要があった。

 

だから同級生のバカどもが、自分から教師などの大人にからんでいくのが本当に理解できなかった。小学校なら大人に甘えたいのだとまだ思えたが、中学、高校になってもそんなやつがいたのは、おれからすれば恐怖だった。

 

まあそういうやつらが大人の目を奪っていてくれたおかげで、おれはその隙に姿をくらまし、自分の活動に集中することができたのだが。



・世の中が自分のことを褒めようとも、自分が自分のやっていることに満足できなければ意味がない。「おれはいいと思ってねえ」マインドがおれは強い。逆も然りである。世間が評価せずとも自分が満足していれば、おれはまあまあ満たされる。

 

このように評価の軸が他者よりも自分にある人間を「自分軸」と呼び、自分よりも他者にある人間を「他人軸」というらしい。

 

おれは激しく自分軸なので、自分軸で生きることの難しさもよく知っている。が、他人軸の人間が他人に振りまわされて疲弊している姿は、哀れだなと思って見ている。