これはフィクションです

32歳。男性。自営業。独身。

2020年12月21日12時59分

今年、久しぶりに自分の手でコミュニティなる人の集団を作ってみたが、コミュニティに対する自分の考えとして、1人のカリスマとその信者という団体にしたくない。その対極にしたい。というのがある。

 

俺が蛇蝎の如く嫌っているものの一つが「依存」だからそういう考えになる。自分が誰かに依存するのも、誰かに自分が依存されるのも激しく嫌う。

 

 

最近もてはやされているコミュニティは依存の要素が強い。吐き気がするが、それは仕方のないことではある。

 

そもそもコミュニティというものが注目され始めたのは、カネが稼げると分かったからだ。コミュニティでカネを稼ぐには、カリスマと信者の図が1番良い。

 

また「コミュニティを始めよう!」と思って本当に人を集められる人間は確実にカリスマ性があるので、自然にやるとカリスマと信者の図になる。なので、コミュニティが依存心の高い信者で溢れるのは、ごく自然なことである。

 

 

 

参加者としてもコミュニティを複数見てきたが、その自然の流れに逆らっているコミュニティもあった。

 

そのコミュニティたちに共通するのは、代表の「信者の集団にしたくない」という明確なコンセプトと実際の行動、よく練られた仕組みであったように思う。

 

そういう意味で、第一に自分自身がカリスマとして君臨する気が真にないのであれば、信者の集団になることはそこまで心配することではない。




いま流行っているコミュニティは、有名人というカリスマに支えられたファンクラブの要素が強い。俺はあれらをコミュニティとは認めない。

 

依存という面でも嫌いだが、

 

「誰かひとりが消えると維持できなくなる」

 

という仕組み、機構としての脆弱性も嫌悪しているのだろう。

 

 

「君がいなくても問題がないものを作らないといけないよ」

 

と、若い頃に刷り込まれた気がする。おかげで俺自身が関わっていなくても、上手に動いているものを見るのが好きだ。

 

 

このあたり経営的に「持続可能なものが素晴らしいね」という価値観だけでなく、俺自身の性癖が大きく影響しているのだということは、今年の気づきのひとつだ。

 

 

俺は自分に刺激を与え、アイデアを誘発してくれるような新しいものが好きだし、常にそういうものに出会いたいと思っている。多くのものを見て、自分自身が体験することを渇望している。

 

なんとなく把握できたものに長く関わっている気はない。素早くそこから脱出して、新しいものと出会える空白を自分のなかに作らなければならない。

 

だから、いつまでも自分がいないとダメでは困るのだ。そういうことで依存を嫌い、仕組みを愛し、カリスマとして君臨することを避けているのだろう。

 

もうひとつ、人に群がられるのも昔から好きじゃない。

俺が限られた友達と楽しむために開発した遊びが世間に発見されて、「なにそれおもしろそう!」と人が多く集まってくると完全に冷める。俺はお前たちのためにこの遊びを考えたんじゃない。お前らの笑顔は俺のやりがいにならない。 




そういうわけで、コミュニティがカリスマと信者の集団になるかは、作る人間の性質が大きく影響する。信者に熱狂されることを望んでいるなら自然にやればいい。人の集まりは自然とそうなる。

 

もしそうでないなら、そういうものを嫌う気持ちが本当にあるのなら、人の心の動きを見切った、よく練られた仕掛けで対抗していく必要がある。